


「内なる衝動の軌跡」
村田匠也個展
'The line of inner impulse'
Takuya Murata 2025
2025.12.06 sat ~ 12.11 thu
13:00-20:00 (06~07)
13:00-17:00 (08~11)
作家在廊日 Artist at the gallery:12.06
online update : 12.10 20:00
花 flower : 平間磨理夫 Mario Hirama
―今回は茶器は無く、壺だけの展示ですね。
LEAFMANIAで壺の展示をやろうかと話が出た時、自分で言い出したものの3日ほど悩みました。
中国茶を専門とした作家という認識は自分自身にはないので、やっぱり茶器以外にもやりたいことがありますが、現実的に生活のことを考えると迷いました。
だけど、これをやるのとやらないのとでは全然違ってくるなという思いもありました。
元々、ただ自己表現というか、売れるかどうかじゃないチャレンジというのをずっとやりたいなと思っていました。
茶器も自己表現ですが、100%自分のエネルギーを放出できてないという気持ちがあったんです。
茶器には用途があるから、制約があるじゃないですか。決まった形があって、口があってとか。
それはそれで面白いと思うんだけど、少し物足りないのがずっとありました。
じゃあ100%の自己表現をやって、ちゃんと仕事として成立するかというのは正直分からないんですが。
でもそれは発表しないと、村田匠也はこういう仕事するんだというのはみんな知らないので、やらないと始まらないですよね。
だからあえて僕もこの大事な時期にそれをやろうというふうに決めました。
―村田さんご自身の中で、これが自分の作品だという意識のもと作るようになられたのはいつ頃からですか?
6年前ぐらいに体調を崩し全然仕事ができなくなりました。何もできなくなったときに自問自答しながら、自分と向き合うタイミングがありました。
なんで自分はそういうものを作ってるのかなとか、置かれた環境とか、いろいろ考えました。
陶芸をやり始めたのは21の時で、自分は何がしたいのか分からないままやってきて、流れの中でこうありたいななどとイメージはありましたが、
結局それはずっと誰かになろうとしていたんです、自分ではなく。それがそもそも自分と向き合えてなかったんですね。
他の人から見たら匠也君自由にやってるねと見えていたかもしれないけど、自分としては全然そうではなく、
すごく悩んでたしやりたいことが何なのか分からないまま、でも手は動かすという感じでやっていました。
そして6年くらい前に作りたいのに作れない、したいこともできないっていう状態だった時、要するに当たり前が 当たり前じゃなくなった時に、
一個一個に感謝するようになったんです。
湯呑み一個作ってその日は終わりとかそういう感じで、前だったら湯呑み一個しかもう作れへんわという感覚だったけど、一個作れた幸せというか、
もう一個で十分やんという、一つ一つの感謝をするようになったんです。
自分の置かれていた環境に関しても、代々やってきた家なのでものすごく良い環境が整っています。そこに対しての感謝がやっぱり足りていませんでした。
それを繰り返すことで、僕は別に何かである必要もないし、自分のできることだけを一つ一つやっていけばいいんだと、無理をしなくなりました。
周りを見なくなり、その時に初めて自分の作品・自分自身と向き合うという気持ちが育ちました。
この変化は人が感じているかどうかは ちょっと分からないんだけど、自分の中では大きな転換でした。
―破れの作品はどんなプロセスで作られていますか?
最初にきっちりと一定の精巧な形を作って、そこからそれを崩していきます。
やり始めた当初はろくろ目があまり無く、フォルムに凹凸も無い端正なものを作っていましたが、この破れの作品だと多少ろくろ目があってもいいな、
多少揺らぎがあってもいいなと変わってきて、現状はそれが良いと思っています。
今回の作品に関してはそのろくろで作る時の揺らぎみたいなのも捉え形に組み込みつつ、でも破綻しない形をまずベースで作って、崩しています。
―村田さんの精巧な作品と破れの作品で、作る時の意識の違いはありますか?
また、破れ作品を作った後、元々の精巧な作品に対しての意識の変化はありましたか?
実は全く同じです。なぜかというと自由な形とは言いながらも、どちらもろくろという、中心軸から回転するという制約の中で作っています。
茶壺を作るのも破れ作品を作るのも、イメージした形を作る手の基本的な技術が必要です。
今の僕の破れ壺のベースは、茶壺を現時点で今のクオリティで作れてるからこそ成し得るフォルムなので、僕にとっては全く同じことです。
クオリティってすごく曖昧ですよね。精巧なものでも崩れたものでも、最終的に人の目に留まるような、造形自体に説得力があるかどうかだと思っています。
ろくろという回転軸の中で、イメージした高いクオリティを実現させるためには基本的なろくろの技術がないとそもそもできません。
なので土をコントロールする力という意味では、技術的な部分でいうと全く同じことです。
感情的な面でいうと、やはりある程度きっちり作ったものを壊すというのは最初はすごく怖かったですが、やりだすとめちゃくちゃ楽しいです。
こんなに綺麗に時間かけて作ったものを壊すという快感があります。
子供の頃にはよく、わざとものを壊すことがありました。うちの0歳の子供も、僕が積んだ積み木を壊していくんですよ。
僕がまたそれを積んで、またそれを壊すという流れです。壊すことで、自分というものと対象物の存在を確かめる行為というのがあるらしいですね。
ものづくりとは、そもそも自分確認の旅で、自分と向き合って自分とはなにかとひたすらやり続ける仕事だと思うんですけど。
辛いけど楽しい、自分の童心の時の気持ちに近づいていくという感じですね。
―作品を作るときの恣意性と偶然性について、どう捉えていますか?
無作為の為という言葉がありますよね。そこには一定の狙ってる部分があって、でもそれが作為的に見えないようにするという。
それに少し近いところはあり、作り込みすぎないある種の偶然性は狙っています。
例えばこれぐらいの壺はこれぐらいの破れ方ができるな、でかすぎるとあの破り方したら形崩れるな、とか、いろんな形を何個も作ってると技術的なことが
分かってきます。そうするとかなり狙っているものになってきますよね。
でも破り方は土の硬さや厚みで微妙に変わるので、偶然性に任す、ある程度道は作って託す部分もあります。
歪めた時に、あっちぎれてきたと思ったらパッと止める。
止めるのも、焼いたら朽ちたところが倒れたりするので、その倒れも予測し朽ち過ぎるちょっと手前で止める。焼いて動いていい感じになる。
結構計算してるかもしれないですね。でも狙い過ぎず、余白はありながら道は作っていってる感じです。このやりとりがめちゃくちゃ面白いです。
動きを予測しながら、 バランスを考えてやります。新しい形にも挑戦しているので、負荷に耐え切れなくてつぶれてしまったりなど、
失敗が今回結構ありました。悲しいけど面白いです。そういうのも含めて、楽しいです。
―作品の”線”とは?
ろくろで精巧に作った線も、ろくろ目も、フォルムも、それを破った時の朽ちた感じのところも、最初から最後までです。
全ての線で何を探してるかといったら、一番自分がグッとくるところですね。
形が生きていて、死んでいない。それが大切だと思っています。
―形の具体的なモチーフはありますか?
この山の川の流れのこの感じとか、そういう具体的で物質的なものをテーマにはしていません。
この世の中の物って粒子の玉でできていますよね。粒が僕という存在を作ってたり、コップになってたり、リモコンになってたりします。
自然の中にも、その粒子の集合体がありますよね。粒子の集合体を僕が見たときに、美しいと感じるところで作品にするイメージです。
美しい川の流れ、美しい山並み、そのものではなく、一つの粒子が放つ波動を作品に集約する感覚です。
僕の感覚的なことで言うと、まず大事なのは、自分が作っているものは自分自身が美しいと思っていないとダメなんですよ。
感動を覚えるものができたときに初めて、美しさの集合体という作品ができるという理屈です。
そのためにはものすごくいろんな要素が絡まないといけません。
外の状態、天気と気候とかと、あとは自分自身が心身共に健康であることと、心が安定しているとか、
すべての状態がピタッと整ったときに初めて美しいものができるんですよね。どこかが乱れているとやっぱりうまくいかないです。
でも人間なので落ち込むときもあるし、天気も変わりますよね。だからどうしてもうまくいかないときもあります。
それは今日はそういう日だなと受け流すというか、別にそれでいいんです。完璧を求めてはいけないけど、完璧を目指しながら日々作っていきます。
破れの作品は、自分自身なぜそう作ろうと思ったのかわかりません。ただ今の時点であれが美しいと思ったんですね。美しいな、綺麗だなと思っていく感じも楽しかったので。 だから自分の心のままにあれを作りました。
心のままに作れるようになったのは、茶壺を作り続けていたからで、全部がつながっています。
